心がだらけたがっているんだ。

【速報】2013年仕様

キーンコーンカーンコーン


だらけ学、助教授見習い、わふるだ。
本日の講義を始める。




「健全な魂は健全な肉体に宿る」とは
正確ではないが、心の一面を体現していると思う。

けして「病人には健全な魂が宿らない」という意味ではない。
心と体は同一ではないけれど、分かちがたいものである。
体が死ねば心も死ぬ。体が動けば心も動く。
体の調子を整えれば、体と表裏をなす心も整えることが
できるのは自明の理である。

よってこの言葉は、魂と身体の関係をある程度表現している。
善行をする人がすべて善人だとは限らない。だが、
少なくとも善行をしなければ善人とはいえないのだ。
健全な魂とは、健全な肉体の一部である。

ただし。
だらけ学の観点から言わせてもらえば、
体と心の間にはもう少し「歪んだ特性」があることを
知る必要がある。
そのひとつが「意思決定と行動の逆転法則」である。

 そもそも人の心には本能という初期設定があり、
心の動きは自分の意志とは無関係に、
いくらか自動補正がされるようになっている。

 例えば、人は良い面と悪い面が同条件で提示されると、
悪い面を信じる傾向にある。それは何故か。

危険な情報をより重視することのできる個体が、
自然界では生き延びる可能性が高いからだ。
ゆえに人間社会において悲観論は支持を得やすい。

 現実は常に自分の主観イメージよりは良いものであるが、
多くの人はその現実世界を正確に観測することはできない。

 これは、フロイトが二人いる某学問的には、
「認知の歪み」とか呼ばれている現象の一部だ。
 うつ症状の人はストレスでこの歪みが増大し、
自分のイメージできる世界が、現実世界よりもはるかに
悪い位置でしか観測できなくなる状態といえる。
さらに悪いイメージから自己防衛の本能が呼び起こされ、
より危険な情報を重視するようになり、主観イメージの
世界はますます悪化するという悪循環になりやすい。

この「認知の歪み」は、本能によるものであるから
完全に消すことはできないが、訓練によって
自分のイメージがどの程度、現実世界から離れているかは
把握できるようにはなる。

 「意思決定と行動の逆転法則」についての話に戻そう。
人は、自分の意志によって行動している、と思っている。
だが、だらけ学の視点では、
「自分の意志」こそが行動によって決定されるものである。

そして、ここが重要なのだが、
行動によって決定した「自分の意志」は、
まるで『自分の意志によって行動した』かのように
事実を逆転修正する。

これが、だらけ学「意思決定と行動の逆転法則」である。

例を挙げる。
朝、起きるための最適な方法は何か。
それは、意志を決める前に「起きる行動を取る」ことである。

目覚まし時計とは、起きる決意を固める装置ではなく、
無理矢理「耳と手を動かす」動作をさせるための装置である。
起きるために、あれこれ考えさせる必要はない。
むしろ思考をはじめると、人はまず現状維持を望む。
顔を洗う、歯を磨く、ご飯を食べる動作を通して、
人は自分が起きていることを自覚し、目が覚めて活動状態になる。

ちなみに遅刻禁止の試合当日に朝早く目覚める事ができたりするのは、
別に決意がすばらしいものだったから目が覚めたというのではなく、
身体が緊張により浅い睡眠状態になっていた、と考える方が自然である。

そもそも「光あれ」とつぶやいて光を出せるのは神様ぐらいのもので、
「自分の意志」は何かを成し遂げるための条件にはならない。
サイコロを念じて振って、思い通りの目が出るのならイカサマである。
結果が出た後で「信じたから成功した」と考えているだけなのである。
予言は常に事後証明される。

「自分の意志」は、行動した後で決定される。
そして、その後で「自分の意志で行動した」ように修正される。
この法則を「ついカッとなってやった」事件にあてはめてみよう。

カッとなってやった、という表現は、
自分の意志で心や身体を制御できなかった、という意味で使われる。
しかし実際は、意志を動かすのではなく、身体を動かしたから、
なんらかの事件になるのである。
また、それらの行為は、大抵「頭に血がのぼって冷静でなかった」
「自分で自分を抑えられなかった」などと、
まるで自分の意志とは無関係であったかのように表現される。

ここで「人は自分の意志で行動する」と仮定するとどうなるか。
カッとなった、すなわち感情が高ぶっていたのであれば、
それはあらゆる束縛、社会的制約を見失っていたということだ。
周りの環境は関係なく、自分の意志にほぼ100%従った状態で
行動したはずなのである。

自分の意志どおりに素直に行動したために、事件になるのである。
しかし、その行為は本当の意志とは無関係のように表現される。
「自分の意志に従って行動した。
 それは、自分の意志とは無関係の行動だった」
これでは矛盾している。

だから、この表現を矛盾無く説明するのであれば、
行動した時点では「自分の意志」は決定していなかった、
と考えるべきではないだろうか。
そしてその行動(問題行動)をした後に、
破綻の無い「自分の意志」が作ろうとしたが
うまく事実を修正できるだけの「自分の意志」ができなかった、
というほうが適切ではないか。

わかりにくいので時系列順に並べる。
感情が高ぶっていた時点では、「自分の意志」は一つではなく
様々に渦巻き、行動する意志が決定されてはいなかった。
様々な「自分の意志」が同時に存在する不安定な状態だった。

そして、行動に移った時点、または行動に移った後で、
行動がたったひとつの「自分の意志」を作り出そうとした。
けれど、その行動を決定するに足る「自分の意志」は作れなかった。

あたかも「自分の意志によって行動した」ように事実を修正できる
ような、行動に見合うだけの「自分の意志」を決定できなかった。
すなわち、「行動」とは一致しない「自分の意志」を作ってしまった。

その後、事実の修正(逆転)が行なわれ、
「自分の意志」とは一致しない「行動」をした、と感じた。
こちらの表現の方がより適切ではないかと考える。

 さらに、この法則は、先述した「悪いほうを信じる」傾向とも
結びつけて仮説を立てることが出来る。
「悪いほうを信じる」傾向からすれば、実際は五分五分の条件でも、
人は失敗する方の未来予想を重視する傾向にある。
真剣に深く考えれば考えるほど、失敗予想の傾向は強まる。

ところが、実際の成功率は、自分の意志では変化しないため、
イメージよりも実際の成功率は高くなる。
結果、イメージではうまくいかないはずなのに、成功する。

この不可解な現象に対し説明をするため、人は無意識のうちに
「自分の意志によって未来が変わった」と考えてしまうのではないか。
この後付けにより、人は自分の意志を重視することができるのではないか。
この仮説はまだちょっと自信ない。

では本題の続き。
「自分の意志」が、行動してから決定されるものだとすれば。
何かしたい、という想いを強く持つことは、
行動の結果とは結びつかない、無益な事なのだろうか。

答えは否。それは極論にすぎる。
心の特性は、「意思決定と行動の逆転法則」だけではないのだ。
その応用が、だらけ学の「できそうな時はできる法則」である。

「自分の意志」が行動の後に決定する、という法則を
別の面から言い換えると、
「自分の意志」で実行できそうな見込みがたてば、行動できる。
という法則になるのだ。

基本的に、心は、
「自分の意志で行動を決定した」と
思える状態になると安定する。
そのため、心は行動する前に、その行動が
「自分の意志で決定できる行動」なのかどうかを
「予測」する。

例えば「手を使って空を飛ぶ」行動に出る場合。
手を使って空を飛ぶという行動に移る前に、
心は「手を使って空を飛ぶ行動」について「予測」する。
手を使って飛べた経験はあるか。
手を使って飛んだ人間はいるか。
人は手で飛べる構造か。
日頃から手で飛ぼうとしているか。
そして、「予測」から結論を出すのである。
手では飛べない。「手を使って空を飛ぶ」行動は、
「飛びたい」という「自分の意志」だけでは実行できない。
「自分の意志」では実行できないと「予測」した結果、
「手を使って空を飛ぶ」行動は行なわれないのである。

逆に、何らかの条件が整って、心の中で「予測」の結果が
「飛びたいと思えば飛べる」になった場合、
「手を使って空を飛ぶ」行動は「自分の意志で実行できる行動」となり、
「手を使って空を飛ぶ」行動をすることができる。
よって、「予測」材料の少ない子どもほど、色々な行動をする。

「予測」そのものは、行動するための「自分の意志」ではない。
行動が実行できるかどうかを決める自動計算であり、
「自分の意志」とは無関係の要素も多く含まれている。
具体的には、「予測」は過去の経験、知識や理論、その時の気分等で
決定される。また、予測は連続的に環境に合わせて変動し続ける。

「予測」は、当然であるが行動の前に行われ続ける。
実際に行動していないので、「予測」中は
「できる」という感情の強さも大きく影響力を持つ。

逆に、「できない」という感情も
また「予測」に影響を与えることになる。
「できない」気分を意識していた場合、
心の「予測」はマイナス方向に補正される。

そして、行動した結果が、「予測」結果と一致することを、
心は強く望む。

なぜなら、「自分の意志で行動を決定した」ように見える状態こそ、
心が最も欲するものだからである。
「自分の思い通りに物事が動く」ことに、人の心は満足を得る。
実際は、行動にふさわしい「自分の意志」を後から選んでいるのだが。

もしも「できる」と「予測」したのに、
行動が「できなかった」場合、
「自分の意志で行動を決定できなかった」ことになってしまう。

逆に「できない」と「予測」したのに、
行動が「できた」場合、
「自分の意志以外で行動が決定された」ことになってしまう。

だから、行動の結果と「予測」の結果が一致するように、
心は行動を調整する。
「できない」と「予測」したら、行動は「できない」。
「できる」と「予測」したら、行動は「できる」。

「できない」という「予測」しかうまれなければ、
どんなに能力があってもその行動は実行されない。
逆に、「できる」という「予測」が明確にイメージされていれば、
能力的に不可能な行動でも実行されることになる。

よって、「できる」イメージを行動の前に強く意識していれば、
「予測」の結果がいくらか「できる」方向に傾く。
そして予測が「できる」という結果をだせば、行動は実行できる。
また、別の言い方をすれば、どれだけ「できる」と強く
思っていても、「予測」の結果が「できない」であったならば、
その行動は実行されることはない。

さて。この「予測」は連続的に、かつ並列的に行われる。
「できる」という予測がされている間、人は行動できる。
そして、行動の結果に最も近い「予測」こそが、
「自分の意志」として決定されるのである。

まとめると、だらけ学的には次のようになる。
1.人は、行動の前に予測をし続ける。
2.「行動できる」という予測がたっている間だけ、人は行動できる。
3.行動した時点の予測のひとつが、「自分の意志」として決定される。
4.意識の修正(逆転)が行われる。
5.「自分の意志」で行動を決定したと思いこむ。

またまた例を挙げよう。
あなたが「DVDを買う」という行動について。
行動の前に、人は予測をする。
DVDを買うという行動をとるために必要な条件は数多い。
まずDVDが売っている事。買う金を持っている事。
そして、DVDを欲しがっている事。他に優先するものが無い事。
それらの条件が全部そろっている間だけ、
あなたが「DVDを買う」という行動が取れる。
そして、条件がそろっている間、ある時点で、DVDを買う行動をとる。
買った時点のあなたの意志が「DVDを買う」だったことになる。
意識の修正が行われる。
あなたは「自分の意志でDVDを買った」と思う。

キーンコーンカーンコーン。

本日の講義はここまでである。
期末レポートの範囲はプリッキュア5からGOGOまでなので
よく復習しておくように。

余談だが、「やればできる」という言葉は
「できるまでやれ」を言い換えた表現にすぎない。
だらけ学的には特に有益性のない言葉であるので注意されたし。

どんなに複雑な事象であっても、 
それを構成する単位のひとつひとつは、
びっくりするほど単純な動きしかしてないもんよ。
…これは物理学に限ったハナシじゃないケドね。
(わふる恩師・S教授名言集より)
  1. 2008/02/26(火) 21:15:50|
  2. わふる
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
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コメント

プリキュア最高、まで読んだ

って書こうと思ってたけど、ついつい最後まで読んじゃったよ。
面白かったよ。第2回も楽しみにしてます。
にしてもよくこんな文章書けるねぇ。

S教授の名言も懐かしいなぁ。
そんなこと言ってたね。
  1. 2008/03/04(火) 23:47:24 |
  2. URL |
  3. 相沢 #mQop/nM.
  4. [ 編集]

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